702講義室
2018-04-06 23:05:00
人間に黄色は見えない
「三原色」というのを聞いたことがあると思います
テレビのモニタ画面だとか
デジタルカメラの受光素子だとか
三つの色の組み合わせでフルカラーを再現するというあれです
ここで
「人間には、黄色は見えない」
と言ったら、驚かれることでしょう
多少語弊があり、錐体細胞に関して厳密性を欠いてはいますが
大筋で間違ってはいませんので
あえて、おおざっぱに話をします(笑)
光の三原色(レッド、グリーン、ブルー)は、前述のように工業製品で、当り前のように採用されていますが
「物理学的には、そのような(三原色)概念はありません」
もっと言えば
インクの三原色(シアン、マゼンダ、イエロー)にしても
「絵の具を混ぜても、別の色になどなりません」
と言ったら、さらに驚かれることでしょう(笑)
「光の三原色」という概念は
人間の網膜には、色に反応する3種類の錐体細胞がある
それぞれの細胞は、赤、緑、青に反応する
この3色の掛け合わせで、フルカラーを認識する
という人間の生理的都合からなるものです
光とは、電磁波のことです
人間に見える光は、可視光と言って周波数380nm~780nm範囲内の電磁波ことです
780nmより長い波長に、赤外線、FMとかAMとか電波があります
380nmより短い波長に、紫外線、ガンマ線、エックス線などが続きます
(ナノメートルnmとは、10億分の1メートルのこと)
「色とは、電磁波の波長に対応する、人間の脳の解釈である」
ということは、前に述べました
さて、黄色とは何でしょう?
黄色とは、(物理学的にいえば)周波数580nmあたりの電磁波のことです
ここで大事なことは
黄色に対応する純粋な電磁波はあるということです
がしかし
人間には、その純粋な黄色を直接見ることのできる視細胞はありません
人間が認識する黄色とは
赤(625~740nm)と、緑(625~740nm)の掛け合わせにより、黄色だと感じている錯覚に過ぎないのです
ズバリ!
「赤の波長」と「緑の波長」を重ね合わせても、「黄色の波長」にはなりません
「赤の波長」と「緑の波長」がそのまま2つあるだけです
人間が、黄色だと認識する「赤の波長」と「緑の波長」を重ね合わせと
純粋な「黄色の波長」の電磁波とは、全くの別物であるということです
絵の具でも同じことでしょう
「青色」と「緑色」を混ぜても、「青緑色」ではありません
「青色の粒子」と「緑色の粒子」が混ざっているだけで
「青緑色の粒子」になるわけではありません
ですから
純粋な黄色が見える生物が、人間が黄色だと言い張ってる黄色を見ると
「それは、黄色でもなんでもない」
ということになりかねません
え?
「そんな生物がいるのか」って
います!それは、、、また後日・・・・・
2018-04-05 23:38:00
私の外にある宇宙
人間は、五感により外界の刺激情報を取り入れ
脳による解釈により、世界のあり様を認識する
視覚は、光(電磁波)を
聴覚は、音(空気の振動)を
臭覚と味覚は、分子(化学物質)を感知し
さらに
皮膚感覚には、触覚、圧覚、痛覚、温覚、冷覚があり
それぞれの感覚器が、それぞれの刺激を感知する
目、耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器が
電磁波、振動、化学物質、圧力などの情報をとらえ
電気信号に変換したのちに、脳に送られ認識される
しかし、これらの電気信号には
満開の桜の色
鶯の鳴き声
ビールのうまみ
小春日和の暖かさ
などの質感情報は含まれてはいません
それらは、脳の勝手な創作でしかないのです
さらに言えば
外界から入ってくる刺激情報そのものに
色も、音も、臭いも、味も、熱さも、何の感覚も含まれてはいません
その段階から、脳による勝手な創作なのです
私の外に世界があるとしても
私の知りうる世界とは、似ても似つかない世界であることは
間違いない
2018-03-26 15:15:00
人間の景色
「私は、この目で見たものしか信じない!」
とか言う人がいます
これは
自分の目に見えているもの、脳が認識しているものが
客観的真実であるという前提に基づく態度でしょうが
ならば
人間は、外界の様相をありのままに知覚することができるのでしょうか?
結論から言って
人間が知りうる外界の様相は、人間の脳がでっちあげた創作物でしかありません
よく言われるたとえに、携帯電話の着メロがあります
誰かから電話がかかってくると、電波が携帯に着信して着メロが鳴る
がしかし
その曲目は、携帯電話側の設定であって、電波とは関係がない
同様に
人間が認識する色は、電磁波とは関係がない
電磁波には、赤だとか青だとかの情報は含まれておらず
人間の脳の側の勝手な設定でしかないのです
だから、人間以外の動物の大半は、同じ色など見ていません
しかも
人間の脳は、電磁波の入力さえ無しで、色を見ることがあります
さらに
色や形、動き、奥行きなどに分類される視覚情報処理システムは
後天的に、大脳皮質に作られるものであって
人間には、視覚認識能力が先天的に備わっているわけではないのです
ならば
人それぞれ視覚認識が違ってもおかしくないことになります
現に
手術による開眼者には、数十年の視覚訓練が必要とされ
それでも健常者と同じ視覚能力を獲得することは難しいのが現実です
もっと言えば
見たことのないものは、それが何であるかなどわかるはずがありません
目の前に広がる現実世界は、脳の創り上げたフィクションの世界でしかないのです
2018-03-24 22:01:00
リンゴであるということ
いきなり本題ですが
「結びつけ問題」に素朴な疑問があります
わんぱく小僧が、目覚まし時計に興味を持って
バラバラに分解して観察したうえで
もう一度、組み立て直そうとする行為に
「結びつけ問題」をなぞらえることがよくあります
私の素朴な疑問は
最初から、わんぱく小僧が、それを目覚まし時計だと分かっているという前提にあります
解りやすいように、視覚情報に絞って考察してみたいと思います
「目の前の白いテーブルの上に、赤いリンゴが1個のっています」
私が、このリンゴの絵を描くときどうするか?
カメラを持ってきて、写真を撮り、プリントします
この写真の2次元情報を、キャンバスの2次元情報に置き換えるだけです
つまり、写真のこの位置の赤い色を、キャンバスのこの位置塗る
その結果として、リアルなリンゴの絵が完成します
2次元平面である網膜に入ってくる視覚情報は、光のシャワーのようなものです
この情報を脳は、一次視覚野において、いったんバラバラに分解して、組み立て直すということですが
その分析とは
どんな直線、曲線があるか
どんな色が、どこにあるか
どこかに動き、変化があるか
ということなどでしょう
この時点では、リンゴもテーブルもないはずです
これら、別々の要素で分析された2次元情報
(色だけにされた情報と線だけにされた情報)が
レイヤーのように重なり合った時に、初めて
何らかの1個体であると、背景から分断判別され、さらに記憶と照合した結果
これは、リンゴだ
これは、テーブルだ
ということになるはずです
個体存在の認識が先にあって、その個体が
どんな形であるか
どんな色であるか
どんな動きをしているか
という順番でバラバラに分析、記憶するのではないということです
つまり、全く同じ情報でも
赤と白い色をした1つの物体として、全く違う判別になることもありうるということです
ある個体に、リンゴであるための色や形の要件をピックアップして結びつけるのではなく
丸い形で赤い色が重なったときに浮かび上がる個体存在の認識に、リンゴかもしれないという解釈が結びつくという順番になる、、、というニュアンス?
結びつけるのではなく、ついたときに認識がおこる
リンゴであるための、丸い形や赤い色という要件は
後から別に、脳の前頭葉で(逆方向から)なされた分析であって
結び付けは、それによってなされているわけではない
のではないか?という疑問です
2018-03-23 20:26:00
色と音は、同じものなのか?
「共感覚」というのを聞いたことがあると思います
ある刺激に対して、その本来の感覚に、ほかの感覚が伴って生ずる現象のことで
例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする
というやつです
よく言われる
「黄色い声」とか「シャープな味」とか「渋い色」などは
感覚としてわかるのですが
ピアノの「ド→赤」とか「レ→すみれ」とか「ミ→黄」とか
ましてや、数字の「5→緑」とか「2→赤」などは
私には、さっぱり理解できません
脳内における視覚を司る部位と、聴覚を司る部位などに混線が生じることによって共感覚が起こる
ということらしいのですが・・・・・
さて、ここでとんでもない疑問が出てきます
音を聞いたときに、音は普通に聞こえている
その上で、色も見える
ということは
空気の振動として入力された刺激が、鼓膜などで電気信号に変換され
聴覚を担当する脳内の部位に送られ、音として認識される
と同時に
その同じ電気信号が、視覚を担当する部位にも送られてしまい
色としても認識されたことになる
ならば
音の電気信号も、色の電気信号も
同じフォーマット、同じレベルの情報ということになるのか?
「ド」という音が、真っ白や真っ黒やぐちゃぐちゃの色ではなく
「赤」という色が、爆発音でもなければ、ノイズでもない
「ド←→赤」という整然とした対応関係にあるということになる
ということは
つまり
視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚とは
同一の情報形態であるということになり
処理される、脳内の部位が違うだけで
同じものということになる