702講義室
2024-03-27 06:58:00
『 瞬間催眠 』
上掲の作品『瞬間催眠』は、新生新協美術展の大いなる飛躍、発展を祈念して制作したものです。
私の作品は、サブリミナル効果をコンセプトの軸として構成するものですが、
さらに今回の作品は、錯視効果を意匠として採用しております。
「絵を見てください。視覚野における知覚誤作動により動いて見えますよね。」
この瞬間、観察者の臨場感は、物理現実世界からはなれ「変性意識状態」へと変容します。
脳のフィルターをすり抜けるサブリミナルメッセージは、顕在意識で拒否することができず、変性状態における観察者の内部表現をダイレクトに書き換えてしまうというものです。
(この作品は、見ても安全です)
2024-03-27 06:46:00
サブリミナル効果とは何か?
「サブリミナル」は、sub「下」とlimen「閾(いき)」を合成した造語です。
「閾(いき)」とは、ある知覚刺激が呈示されたときに、それを認識できるかどうかの境界のことです。
例えば、有名な「コカ・コーラ実験」の映像刺激を例にとって説明すると
ある被験者が、2/100秒以上の長さでコカ・コーラの映像が表示されたらコカ・コーラを認識できるとします。
それ以下だと認識できないとすると
・2/100秒が「閾値(いきち)」となり
・2/100秒未満が「サブリミナル(閾下)」
・2/100秒以上が「スプラリミナル(閾上)」となります。
サブリミナル効果とは
「顕在意識」では認識できなかった映像や音声などによって、「無意識」レベルで生体に何らかの影響を及ぼすことをいいます。
1957年アメリカニュージャージー州のドライブイン・シアターで実際に行われた「コカ・コーラ実験」は、大成功したと報じられました。
(この実験に関しては、私は懐疑的なのですが、、、)
ところで『サブリミナル効果』については、全く否定的な検証実験もあります。
例えばこんな例でしょうか?
エアコンの効いた映画館で「コカ・コーラ」の写真を、認識できないスピードで表示して
その結果、売店で「コカ・コーラ」がいっぱい売れるかどうか?
あほじゃないでしょうか?
そもそも「コカ・コーラ」の写真を、はっきりわかるように表示したとして
欲しくもない「コカ・コーラ」が飛ぶように売れるとでも思ってるのでしょうか?
じゃあ、
真夏の暑い炎天下、のどが渇いてたまらないシチュエーションならどうでしょう?
冷たくキンキンに冷えた「ビール」「コカ・コーラ」「麦茶」が売っています。
さて、「コカ・コーラ」が一番売れると思いますか?
私は「ビール」が一番売れると思います(笑)。。。
サブリミナル効果を実証する場合、非常に重要なことは
「認知科学」「心理学」「無意識」に関する知識と技術、及び「実験環境」により、結果は大きく違ってくるということです。
2018-04-09 07:53:00
写実の裏舞台
現代美術は、言うに及ばず
近代美術の具象絵画においても、実物を目の前にしてキャンバスに直接、写し取っていくという現場主義的な制作手法は、いまや珍しいといっていいでしょう
リアルであればあるほど、写真を使用しているのは間違いないありません
19世紀の初めに写真が発明されて、美術界に衝撃が走りますが
そもそも、人間に正確なデッサンなどできるものでしょうか?
デッサンと言えば、ご存じ石膏デッサンですが
分かりやすく、1辺1mの直方体の石膏で考えてみましょう
直方体の角度を振らず、眼の高さに中心が来るよう前方1m、真正面に配置します
この状態ですと
1焦点透視図法となり、正面は正方形となります
眼の高さを変えずに、そのまま左辺へ視線を移動すると
2焦点透視図法となり、右辺より左辺の短い台形になります
その位置から左上角に視線を上昇させますと
3焦点透視図法となり、縦横線ともに平行線ではなくなります
つまり
頭の位置、視点を固定しても、対象物上を視線が動けば
対象物の角度と位置を動かしたことと同じことになり
形状が変わって見えてしまうということです
それでは
眼の方向、視線を固定して対象物を正確に観察することはできるのでしょうか?
眼の網膜にある視細胞は、均一に配置されているわけではありません
そのため
2.0の視力を持つ人が真正面を見た場合
はっきり見える視野の中心から周辺部に移るにつれ
しだいに色が認識できなくなり、つぎに形も認識することができなくなります
周辺部では、0.1くらいの視力になってしまうそうです
この眼の生理機能を、忠実に作品に再現しようとした作品が
レンブラントの「夜景」です
しかしこの絵は、人間の生理機能に従って、眼に見えたものを忠実に写実したわけではありません
モデルの群像を前にして直接制作したわけではなく
計画的に、個別にひとりひとり描いたうえで
わざと、このように周辺部をあいまいにしているわけです
いかにも自然に見えるように、きわめて不自然な描き方をしていると言ったら嫌味でしょうか?
それに対して、素直にそのまま眼をキョロキョロさせて描いた絵が
ブリューゲルの「雪中の狩人」です
どちらが「良い、悪い」というわけではありません・・・・・あしからず
2018-04-08 16:47:00
古い絵を現代美術にしてみました
美術は、時代社会に即するさまざまな要因により、受け身的な形でその活動様式を変遷させていきます
時代的要因、地域的要因、経済的要因、
技術的要因、宗教的要因、内容的要因などにより
さまざまな主義、会派が生まれ分類されることとなります
がしかし
それらは互いに全く相いれないものかと言えば、そうとも言えないでしょう
ではここで
脳科学という視点で、過去の絵の中からいくつかの作品を拾い上げ、括ってみたいと思います
人間は、物に反射した光を眼の網膜に写して世界を見ているわけですが
脳は、網膜に敷き詰められた視細胞に入力される光情報を、そのまま一枚の絵として変換、画像処理しているわけではありません
脳は、網膜に入った情報を
色、形、位置、動きという四つの要素に分解、モジュール化して別々に処理しているのです
この脳機能の観点から、作品を分類すると
色彩視モジュール表現→→→モネ
形態視モジュール表現→→→ピカソ
空間視モジュール表現→→→モンドリアン
運動視モジュール表現→→→デュシャン
ということになります
これらを合わせて、「視覚モジュール主義」と言えなくもない?
それで何が言いたいのかというと
編集もまた、立派な著作に当たります
ですから
たとえ、本人は一枚の作品も制作していなくても
独自の視点から、コンセプトを作成し
過去の膨大な作品群の中からピックアップする、コンセプトに則した
編集行為、編集物もまた
現代美術と言えるのではないか?
ということです
2018-04-07 19:03:00
なんて趣味の悪い絵なんだ!
私の目の前に広がるこの景色
これは、私固有の景色でしかありません
あなたの見ている景色とは、同じではありません
ましてや
人間以外の動物が認識する世界とは、似ても似つかない景色なのです
それは、脳の認識レベルにまで至る話ではありません
目への入力の時点で、他の動物とはすでに条件が違うのです
第一点に、網膜にある錐体細胞が反応する電磁波の周波数域は、動物によって異なるという点があります
たとえ同じ、光の三原色システムであったとしても、その三色が違うのです
ここからです
第二点に、哺乳類の多くは、「二原色」システムで色を識別しています
進化の過程において、かつて哺乳類も、爬虫類も、鳥類も、恐竜も「四原色」だったと言ったら驚かれるでしょうか?
哺乳類は、生き延びるために夜行性となり、その結果、4つの錐体細胞の内の真ん中の2つを退化させてしまったのです
ところが、進化の過程において「二原色」となった哺乳類の一部に、さらに突然変異が起こり、錐体細胞が1つ復活することとなります
人間の目は、このような不自然な過程を経て、不完全な「三原色」システムとなったわけです
不完全というのは、錐体細胞の周波数反応域に偏りがあり、「三原色」システムで表現されるすべての色域を認識することができないという意味です
さて、それでは
「四原色」で世界を見ることができる動物とは、何でしょうか?
鳥です
鳥は、前回申し上げました純粋な「黄色」を直接見ることができます
さらに、鳥は「三原色」のレベルで、人間よりも広い色域を認識することが可能なのです
さらに、+1色の「四原色」の世界とは、いったいどのようなものなのでしょうか?
人間には、認識できないのですから、想像のしようもありませんが
ニュアンスだけはわかりますので、「四原色」ではなく「三原色」と「二原色」の差で説明します
多くの哺乳類は、「二原色」のままです
例えば、ネコ
ネコに敬意を表して、先に言っておきますが、これは色に関してのみです
ネコの暗闇での識別能力や動体視力は、とうてい人間の太刀打ちできるものではありません
ですから、これにおいて、ネコの視力が劣っているというわけではありませんので
あしからず
色域は、空間で表すことができます
ネコにおきましては、仮にですが「赤」と「青」の二原色だとしますと
x軸とy軸の平面で表現できます
人間は、これに「緑」が加わりますので
x軸とy軸にz軸が直交して、立体になります
1次元違うだけで、これほど色域に差が生じるということなのです
さらに
鳥は、これに加え、人間の認識できない「紫外線」領域が加わることになり
4次元空間域になるということです
これは、空間図形で想像することすら難しいですね
人間と鳥との視覚認識能力レベルは、これほどまでに差があるということがお分かりいただけたでしょうか?
さてさて
その鳥が、人間の芸術家とやらが書いた絵画を見たらどう思うでしょうか?
「なんて色彩センスのない、へたくそな絵なんだ」とバカにされてもしょうがない
と想像してしまうのは、ボクだけでしょうか?