レポート「浮世絵」
○ 相転移する浮世絵
○ 日本の浮世絵 世界の浮世絵
○ はじめの、初めに、あるもの「浮世絵」
○ 浮世絵とは、錦絵とは、NISHIKIEとは
○ 浮世絵に見た夢NISHIKIE
○ 浮世絵の本領
○ 春画のステータス
○ うまく言えないけれど
○ 最後に言い残したこと
相転移する浮世絵
さて、これから
NISHIKIEの主題となっている浮世絵について述べたいと思います
なぜ私は、相転移美術のターゲットとして浮世絵を選択したのか?
それはすなわち
浮世絵が芸術として、世界的に認知される歴史的過程において、一度相転移しているという経緯です
そして、NISHIKIEはコンセプチュアルアートというスタンスをもとりますので
相転移美術という文脈が、第一段階として理解しやすいという理由からでもあります
そもそも
浮世絵とは、江戸時代を中心に社会世相、風俗表現したメディアでした
現代における、テレビ、NET、新聞雑誌、広告、ポスター、ブロマイドにあたる娯楽メディアとしての役割を担っていたわけです
現代では、日本のマンガ、アニメ、ゲームなどが、海外においてはクールジャパンと称して、芸術と評価されておりますが
これは、外国語に内容が詳細に翻訳されているとともに、現代美術の持つ価値観がベースにあってのもので、当時とは少し事情が違います
この、江戸時代のメディアとしての浮世絵も、じゅうぶん芸術として評価できるものと私は思いますが
浮世絵が、日本を代表する世界的芸術となった背景は、全く違う文脈によるものです
浮世絵を本当に理解するには、江戸の風俗、歴史文化を理解している必要があると思います
がしかし、当時のヨーロッパにおいては
そのような地域、時代背景を文脈としてふまえず、ビジュアルとして一義に受け入れられたということです
しかも
美術作品として、秀逸であったということではなく
美術手法が、当時のヨーロッパ絵画において、圧倒的に斬新であったということに他なりません
これは、北斎、歌麿、春信らの芸術性がどうのという意味ではなく
ブラックモンの有名なエピソードにある、日本の茶碗、皿などの輸入梱包材としての浮世絵は、写楽、広重、清長ではなく、明治期の二流~三流とされる浮世絵しか使われていなかったという事実です
それでは、浮世絵がどのような文脈において
西洋美術史における特異点、印象派の成立に多大なる影響を与えたのでしょうか?
当時のヨーロッパにおける絵画事情は
教会をスポンサーとする宗教絵画ではなく
皇帝、王、貴族をパトロンとする宮廷絵画へと移っておりました
さらに、官選であるサロンの権威は絶大なものとなり
さまざまな利権をめぐる弊害がはびこり、不満が噴出します
これらの権威や、諸事情に対抗する形で生まれた絵画運動が印象派です
ヨーロッパ絵画の特徴は、伝統的にリアリズムの追求にあります
宮廷画家としての肖像画制作において、徹底したリアリズム追及はピークを迎えます
時は遡ること19世紀初頭、「写真」が発明されます
それが時を経て進化し、絵画の根底を揺るがすまでに成長します
対象を精密に描写することにおいては、写真にかなわない
絵画は、写真に出来ない表現手法へと向かわざるをえなくなります
そして
そこに現れたのが「浮世絵」だったということです
そしてそれは
彼らの何百年に及ぶ価値観の全否定だったのです
それは
・輪郭線の使用
・単色ベタ構成
・背景の削除
・遠近法の不採用
・陰影法の不採用
etc
これら、リアリズムの常識とは正反対のスタンスに、彼らは可能性を見出します
がしかし、ここからが問題なのですが
これらの作風は、浮世絵の意図とは言い切れないのです
つまり
木版画の版木による都合であったり
ブロマイドとしての都合であったり
さらには、遠近法、陰影法を用いてる作品もあります
どういうことかというと
ヨーロッパで評価された浮世絵は、350年におよぶ浮世絵の歴史の内、30年間に集中しています
つまり
評価された浮世絵は、彼らの都合によるチョイスであるということです
浮世絵が本来内包する、江戸の風俗、歴史的意味などは重要視されず
第一に、作品の持つ完成度を評価したものでもありません
浮世絵の持つ前提的表現手法が、彼らの都合に合致したということでしょう
私は
浮世絵は、まぎれもない芸術だと思います
がしかし
世界的芸術としての浮世絵は、ヨーロッパ美術における文脈によって
同一の浮世絵そのものでありながら
全く違う芸術として、相転移されたものであると解釈するのです
これが私の浮世絵論です
そして
無謀にも、さらなる相転移を試みる挑戦がNISHIKIEなるものです
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日本の浮世絵 世界の浮世絵
本来の浮世絵とは
世界で認知されているようなものとは全く違います
また
我々が知っている、美術館やギャラリーに額装されて展示されるような
教科書に載っているような、芸術作品とは違うものです
「浮世絵とはメディアであった」という話は先にしました
ニュアンス的には
生活に密着した日用品であったという方が近いかもしれません
カレンダーであり、ブロマイドであり
クイズゲームであり、おもちゃであり
広告であり、ガイドマップであり
娯楽雑誌であり、新聞情報であり
政府批判であり、裏メディアであり
江戸の風俗、文化、思想、政治、、、
それはまさしく、日本のアイデンティティそのものであると言えます
それはあたかも
人間が生きるために無くてはならない「水」のような存在であったと言えるのではないでしょうか?
その意味において、まさしく浮世絵は、浮世絵として芸術であると思います
ヨーロッパ美術の文脈により
一点一点の作品を、芸術として扱われることになった浮世絵は
まさに
固体化された水、「氷」へと相転移した浮世絵とも言えるでしょう
どちらが、上とか下とか、という問題ではありません
どちらも、同じ浮世絵でありながら、違う浮世絵の「相」にあるのです
それは、H2Oが
氷(固体)、水(液体)、水蒸気(気体)の三相を相転移するかのごとくに
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はじめの、初めに、あるもの「浮世絵」
創作活動において
純粋なるオリジナリティは、人間の構造的にありえません
前提として
人間は、記憶にあるもの、及びそこから類推できるものしか認識できません
私である自我は、過去の記憶による評価関数でしかないのです
私は日本人です
私の思考は、日本語による評価関数であるため
日本語にない単語の概念は、認識することすらできません
私のすべての認識は
親、学校、地域社会、テレビメディア、書籍などによる経験・教育の蓄積と
日本のもつ歴史、文化、社会、宗教などを基本ベースとして構築されます
私の思考は、その範疇を超えることは、脳の構造的にできないのです
さらに、記憶とは
誕生後の後天的記憶だけではありません
生命の誕生から引き継がれてきた、DNAによる先天的な生物的本能も前提としてあります
生物の前提的本能とは、生存欲、生命の継続欲です
がしかし、
人間の行動原理には、これらは必ずしも当てはまらない
生命とは関係のないエロチシズム
これはまさに、人間が動物ではなく人間たる重要な本能である
さて、「NISHIKIE」における「浮世絵」とは何か?
それは、創作における依って立つ基盤としての象徴です
日本のアイデンティティを
オリジナルである江戸時代の庶民の暮らしから
西洋化される明治の文明開化にまたがる時代に見出す
その象徴として「浮世絵」を採用しました
そしてさらに、人間としての象徴が「春画」なのである
江戸時代とは、テレビ、映画、小説で見るだけの特別な時代ではなく
今、現在と地続きでつながる紛れもない日本、日本人、私そのものなのです
そこから始まる、創作がよって立つ基盤
創作の根拠の明確化なのです
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浮世絵とは、錦絵とは、NISHIKIEとは
「浮世絵」は、江戸時代に成立した絵画の一様式です
初期の浮世絵は単色刷りしかできなかったため、彩色には筆を用いていましたが、鈴木春信らによって多色刷が考案され、極彩色の浮世絵が刷られるようになりました
この多色刷り浮世絵を「錦絵」と呼びます
また、浮世絵の一様式で、特に江戸時代に流行した性風俗を描いたものを「春画」と言います
「浮世」とは「現実」という意味です
一般に江戸時代を通じて現実世相、風俗を描いた町絵師の作品を総称します
その絵画様式の源流は、遠く大和絵につながり、さらに狩野派をはじめ土佐派、洋画派、写生画派など他派の絵画傾向をも貪欲に吸収統合し肥大化していく進化形絵画と言ってもいいと思います
さて
錦絵とは浮世絵のことです
錦絵は上記の通り、特に多色刷りによるカラー表現を特徴とします
NISHIKIEは、この錦絵(浮世絵)を相転移させたものと定義します
その様式における相転移の特徴の一つに
「多色刷り」から「フルカラー、総天然色」への変換があげられます
さらに
「形状絵画」である錦絵(浮世絵)における形の認識の要素「輪郭線に区切られた単一色面」に対して
色面は→「線」に、輪郭線は→「点」に変換され
単一色は→「多色」に変換され
それらが、互いにゆらぎながら、折り重なり合い
画面全体を一様に、どこもかしこも境目なく、総天然色フルカラーで埋め尽くします
文字通りの錦、極彩色の「色彩絵画」へと相転移させるものです
元絵である「具象」様式は、統一の「色彩抽象」様式へと変換され
残るのは、究極的には「元絵の概念」だけでよい
とします
が、その「概念」の認識により、抽象表現の中に「元絵の内容・具象形状」は内在し、具体化され、知る者の目に再び浮き上がります
NISHIKIEとは
浮世絵春画であるという概念が、色彩抽象にエロチシズムを具現化する
概念ありきの情報潜在表現絵画であると位置づけます
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浮世絵に見た夢NISHIKIE
「写真」の発明は、19世紀のヨーロッパ画家たちに恐慌を巻き起こしました
それは、絵を描くということ、画家であるということの根底を揺り動かす大事件であった
写真ではできない手法を必死で見つけようとする人
逆に写真を利用してもっと迫真的に描こうとする人
絵描きを廃業して写真家に転向する人
時代は、全体として近代化へとまっしぐらに突き進み
印象派は、それと軌を一にして発展することとなります
印象派が、近代社会の中で芸術的基盤を築いていけたのは
印象派に、近代社会にふさわしい意味と価値があったからにほかなりません
さて、時代は下って20世紀の後半
世界中の近代画家、及び写真家に、再び恐慌を巻き起こす大事件が発生します
CG(コンピュータグラフィック)の台頭です
私は、28年前から実業の世界でCGの最前線に携わっておりました
当時は、まだWindowsではなくMSDOSの時代であったのが懐かしく思われます
この時の日本美術界の反応は、拒絶一辺倒、狂気錯乱状態としか言いようがありませんでした
今でこそ、現代美術の世界においては、特に映像表現において脚光を浴びておりますが
実は今でも、一般的美術界においては拒絶の姿勢は何ら変わっていないといっていいでしょう
私といえば、制作過程においては、CG及びハイテクノロジーを利用するものの、実作品そのものはアナログスタイルのままで、ただ状況を俯瞰するに留めておりました
第29回損保ジャパン美術財団選抜奨励展にて、秀作賞を受賞するまでは、、、
さて
相転移美術であるNISHIKIEは、CGによる現代美術のコンセプチュアルアートと位置づけます
日本、歴史文化を包含する浮世絵メディア作品を
NISHIKIEの手法にのっとり相転移させた「情報内在型抽象表現絵画」ということになります
印象派が、近代文明の発展を映し出す時代の鏡であったように
現代美術は、20~21世紀の時代に寄り添うように進化してまいりました
変化は、全体に一斉に起こります
これは、自然の摂理であり
生物の種の変化においても同様、生理的必然でもあるようです
私の相転移美術NISHIKIEにおいても、そうあるべきであり
そこにさらなる、壮大な芸術性があるのではないかと考える次第です
・庶民生活そのものであった情報文化としての日本の浮世絵
・一枚一枚が個別に芸術評価されたヨーロッパにおける浮世絵
そして
・形を無くし、日本と人間の概念だけを色彩のゆらぎに残したNISHIKIE
一杯のコップの水が凝結するがごとく
ヨーロッパで評価された浮世絵は、世界の海を氷で覆い尽くしました
一杯のコップの水を気化させてみたいと始めたNISHIKIEが
大海の水を大空に舞いあがらせている、、、、、そんな夢が見たい
そんな夢をのせて、NISHIKIEを今日も制作し続けてまいります
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浮世絵の本領
19世紀後半、ヨーロッパ美術史において
浮世絵は
写真の持つリアリズムに対抗する新しい表現手段として
脚光を浴び、認知評価されることになります
最初に評価されたのが、六大浮世絵師と呼ばれる次の6人です
鈴木春信(すずきはるのぶ)
鳥居清長(とりいきよなが)
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
葛飾北斎(かつしかほくさい)
歌川広重(うたがわひろしげ)
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
これは
日本の歴史文化とは関係なく、絵としてわかりやすいということ
当時のヨーロッパ美術界における事情、ニーズに合致したということ
さらに、個別に芸術性が高いと評価されたということです
当時のヨーロッパ美術における危機的事情とは、まさしく「写真」の登場のことです
それでは、逆に日本における浮世絵の側に視点を移してみましょう
六大浮世絵師が活躍したのは
350年を誇る浮世絵の歴史の中で、浮世絵黄金期(1781~1801)を中心に、たった30年くらいの間に集中しています
これは、先にあげたヨーロッパでの評価基準による限定と切り離せません
実は、浮世絵の発売枚数だけを見ると、明治の初め頃から30年代にかけてが、一番多く刷られて隆盛を極めているのです
さらに、浮世絵の7割を占めるジャンルは、幕末期に生まれたものです
これだけを見ても、世界的認識とのギャップの大きさは否めません
しかもあろうことか、現在の日本における浮世絵の認識は、このヨーロッパ基準に基づいているのです
それでは、日本における本来の浮世絵とはどのようなものだったのでしょうか?
それは、ずばり
浮世絵とは、「写真」である
と言ったら、矛盾に驚かれるのではないでしょうか?
浮世絵とは、美術史の文脈の中でとらえられるようなものではありません
当時の江戸は、高度に進んだ情報化社会でした
その情報メディアの中心的存在として浮世絵があったのです
浮世絵とは、美術館の中で額装に収まるようなちっぽけな存在などではなく
ましてや、貴族の肖像画などと同列におかれるものではないのです
浮世絵とは、当時の日本を映し出す鏡であり
浮世絵が、当時の日本を形づくっていたとも言えます
なぜなら
浮世絵は、メディアであるとともに創作物でもあるからです
その時代、文化、習俗に根差したうえで
その時代の民衆の総意を方向づけ、コントロールし、創作する
重要なビジュアル情報メディアにまで肥大化していたと言えるでしょう
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春画のステータス
「春画(しゅんが)」とは、性風俗(特に異性間・同性間の性交場面)を描いた絵画のことで
枕絵、秘画、わじるし、とも呼ばれます
なぜ「わじるし」と呼ばれるのかというと
春画は、ご禁制の品(犯罪)であった為です
幕府により禁じられていたため、表だって本屋での売買ができず
指を丸めて(暗号)取引をしていた事からそう呼ばれました
さて
春画は、画題の猥褻さゆえに芸術性が低いとされます
が、しかし
ここでもまた、全くの大きな間違いを犯しているのです
浮世絵師にとって、春画を描くことはステータスだった
と言ったら驚かれるでしょうか?
浮世絵とは、幕府にとって不都合な面の多々ある庶民メディアであったため、数々の規制が加えられます
贅沢であるとして、色数制限
政治批判に対する検閲
販売価格まで幕府により決められていました
が、しかし
春画は、ご禁制の品です
はなから、規制の対象ではないアンダーグラウンドのものなのです
何十色の極彩色で刷ることも
販売価格も自由に決めることが出来る為、画料が高いわけで
浮世絵の最高の技術が使われているものが、春画だとも言われているのです
浮世絵師は言うに及ばず、狩野派、土佐派の奥絵師達までもが手掛けていたことが何をかいわんやでしょう
現代では、世界的にその芸術性は認められ
イギリスの大英博物館、フランスの国立図書館にも大量の春画が収蔵されているが
まだまだ一般的には、非公開である場合が多いも事実です
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うまく言えないけれど
浮世絵とは
芸術だとかメディアだとかを超えた超越的な存在だと思います
写楽とか、北斎とか
個々の芸術性の認識からでは、あまりにも大きすぎる存在であり
江戸中期から明治期にかけて
日本に花開いた世界に類を見ない複合的メディアというだけではなく
時代そのものであり、生活そのものであり
日本人そのものであり、日本そのものであり
だがしかし
そのような大きなものを大きなままに捉えることは難しい
あまりにも大きいものは、認識することすらなかなかできない
だから、一旦
大きなものを個々の認識できるサイズとしたうえで
別々の作品に、一貫した何らかの意図的な意味を付与することによって
個を全体として再表現することはできないか?
浮世絵を借りて
日本が宿す生命の息遣いのようなものを表現することはできないか?
NISHIKIEとは、そんな夢であり、挑戦なのです
うまく言えないけど、、、
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最後に言い残したこと
NISHIKIEにおいて
浮世絵に付与する、一貫した何らかの意味とは何か?
それは
私が終始、芸術論で展開している
「現実とは何か?」
なのです
浮世絵とは
江戸時代中期から明治にかけての日本そのものを映し出した鏡である
それは
その時代においても、視覚情報として固定された浮世絵が、社会の現実を操作し
庶民の現実そのものになる、すなわち現実そのものであることを意味する
「芸術とは、現実の創造である」
私はこの定義のもと終始、芸術論を展開し創作活動するものです
浮世絵は、現代の我々に
我々の知る由もない世界を、白日のもとパノラマ展開し、披露してくれます
我々にとって、浮世絵の魅せる世界観が、すなわち江戸、明治期の現実そのものになるのです
「浮世絵が、現実そのものである」ということです
そのような浮世絵に対し、さらに
「現実とは何か?」
という意味を付加することによって
浮世絵という存在、浮世絵という現実そのものを芸術表現しようとする
それが、NISHIKIEなのです
これを持って、NISHIKIE、相転移美術に関する覚書としたいと思います
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相転移する浮世絵春画
浮世絵は、浮世絵などでとどまるものではなく
大いなる時代そのものとして存在した何かであり
個々の作品は、その端々に顔を出す何かでしかない
この世の背後に広がるその何かなるものをもって初めて浮世絵ならんとする
浮世とは、現実のことである
色即是空
この世は、うたかたの夢、幻のごとし
多様なる浮世絵の、多様なる様相を
一様なるゆらぎの中へ、相転移させることで
江戸時代という確かなる現実そのものを、ひとつの芸術として昇華したい
私が取り組んでおりますNISHIKIEに代表される表現様式を
『 相転移美術 』と、ここに命名します
相転移(そうてんい:phase transition)とは
物質が化学的、物理的に一様であるとき、その均質な部分を相と呼ぶが、一般に物質は、例えば水(液相)が氷(固相)になったり水蒸気(気相)になったりするように、温度や圧力などによって異なる相をとる。このように、物質がある相から異なる相に移ることを相転移、または相変化という。
(世界大百科事典 第2版より)