702講義室
2018-01-26 07:41:00
何をすればいいのか?
あなたの目の前に広がる景色、そこで繰り広げられるドラマ
それらは、あなたの世界でしかありません
あなたの脳は、見たり聞いたりする膨大な情報の中から
あなたにとって重要なものだけを選別し、処理をします
つまり、重要でないと判断されたものは認識されません
(脳の基底部にある網様体賦活系によるシステム)
あなたに見えている世界は、
あなたに聞えている世界は、あなたの頭の中なのです
そして
あなたに見えている世界が、
あなたに聞えている世界が、あなたそのものなのです
重要度が変われば、あなたの現実世界はその様相を一変させるでしょう
芸術とは、現実の創造である
ならば
重要度の見直しこそが、重要度の創作こそが、重要度の主張こそが
芸術活動の本質的要素なのではないのか?
私は、そう思います
2018-01-25 12:28:00
あるがままの姿
絵画を鑑賞するとき
どのように作品と対峙するのが正しいあり方なのか?
「冗談じゃない!そんなものは、自由なんだ」
今、そう思われた方が大半ではないかと思います
その意見に、異論はありません
だけど
少しだけ、私の話を聞いてください
絵画とは、視覚表現メディアです
1枚の作品にも、膨大な情報が内在されています
がしかし
そこに言語作用が働いてしまうと、情報の大半に欠落もしくは固定化が起こります
これは、「樫の木」だ
と言語にした瞬間に、あなたの知っている樫の木に限定され
これは、「ベンチ」だ
と言語にした瞬間に、ベンチが個の存在として意味を持ち
ここは、「公園」だ
と言語にした瞬間に、あなたの記憶の中の思い出を呼び起こします
言語束縛とは
「言語による想念が、世界を規定してしまうこと」を言います
これは何か?という言語による思考の介入は、あなた固有の雑念でしかないのです
言語による思考を取り払わない限り、その作品の本当の姿は見えてこない
作品を「あるがままに見る」ことは出来ない
ということではないでしょうか
2018-01-24 07:38:00
芸術の宿る場所
誰もが芸術だと認める、ゴッホの「ひまわり」
さて
具体的に、この作品のどの部分が芸術なのでしょうか?
黄色い色なのか?燃えるようなタッチなのか?
構図なのか?モチーフである向日葵そのものなのか?・・・
どれも違うと思います
芸術などという大それた概念を受け止めるほどのものではないでしょう
それでは、すこし話を変えます
生きている人間のどこに命があるのでしょうか?
心臓にあるのか?脳にあるのか?それとも他の器官にあるのか?・・・
どこにもありません
じゃ
心は、どこにあるのでしょうか?
脳の神経細胞をすべて探しても、みつからないでしょう
命にも、心にも実体などありません
しかし
私たちは確かに生きているし、心は存在します
命という実体はないけれども、生命活動はある
心という実体はないけれども、意識活動はある
それと同じように
芸術という実体はないが、芸術活動があるから芸術なのだ
芸術とは、実体にではなく、恒常的活動に宿るものである
そう思うのです
例えば、ゴッホの「ひまわり」をそっくり模写しても
それは、芸術作品にはなりません
模写をした人に、ゴッホの芸術活動がないからです
芸術とは、そのようなものだと思います
2018-01-23 07:22:00
頭のいいやつ
幸せや安心を追い求めるから
不幸や不安に追いかけられることになる
幸せと不幸は、一対同質のものであり
安心と不安を切り離すことなどできない
そもそも
幸せとか、安心とかいったはなし自体が怪しいものだ
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
安心など原理的にあるはずがない
幸せをエサに、不幸で脅されてはいないか?
安心をエサに、不安で縛られてはいないのか?
そのようなもので、何かをごまかされているのではないのか?
幸せだとか、安心だとか、そんなものを考えたやつは
よっぽど頭のいいやつだろう
2018-01-22 16:13:00
それでも私はここにいる
わたしは、誰なのか?
そのことについて最近では、このように考えられています
私とは、他者との関係でしか定義できない、網目の交差した点のようなものだ
自我とは、過去の記憶に基づく評価関数である
いや、それでも私は、今ここに確かにいる
と、納得のいかない人は、多いのではないでしょうか?
その私とは、いったい何なのか?
それは
目の前に広がるこの世界、この世そのもの
自分が認識する、他人も、環境も、今ここすべてが
自分そのものなのです
すべては、わたしの中にある
すべては、私の脳の内部表現にすぎない