702講義室
2018-01-15 07:42:00
悟り(全知)に対する考察
茂木健一郎氏の著書に
「悟り(全知感)に対する懐疑」を論考している箇所があります
意識の変性状態での至福感
「世の中に自分が知らないことは何もなく、すべては満たされた状態にある(引用)」に違和感を覚える
「悟りにおける全知感は、実は何も具体的なことを知らない状態、すなわち無知の状態に他ならないのではないだろうか(引用)」
現実的質感においては、何ら異論はないのだが
少し、私の考えを記録しておきます
すべてを知っているとはどういうことなのか?
情報は
抽象度が低いほど(具体度が高いほど)包括する範囲は狭くなるが、情報量は多くなり
抽象度が高いほど、包括する範囲は広くなるが、情報量は少なくなります
ミケちゃん・三毛猫・猫・ほ乳類・生物・・・
後ろに行くほど、抽象度が高くなり、ほ乳類には犬も人間も包括され広がるが、具体度は下がり情報量は少なくなります
おっしゃる通り、どんなに賢い人でもすべてを知りつくすことは不可能です
がしかし
知性の高さとは、知識量の多さではなく、抽象度の高さではないでしょうか?
ご指摘の
「すべてを知っているとは、もはや何も新しいものを知る必要はない」という意味にはならないと思います
茂木健一郎氏の論拠は
「ゼロは無限大に等しい」ということから始まっていますが
抽象度が限りなく高くなった状態を「悟り」とするなら
包括される範囲は、限りなく無限大になり
情報量は、限りなくゼロに近づいていく道理であると考えます
2018-01-14 16:30:00
私という実体
人間とは、情報でしかない
私とは誰か?
名前、生年月日、親は誰で、何処の生まれで、、、
どこの学校を卒業して、どこの会社で働いていて、、、
と、何処までいっても、私以外との関係でしか定義できない
いや!ここに確かに私はいるではないか?
「観測による波動関数の収縮」などという
量子論のコペンハーゲン解釈など持ち出さなくとも
私の体を構成している原子は、つねに入れ替わっている
1ヵ月もすれば大半の細胞は入れ替わってしまうのだ
あるのは、DNAという情報だけである
それでも、今考えている私はいる
自我とは、過去の記憶からなる評価関数でしかない
私とは、脳内の記録と活動情報でしかなく
脳の死とともに消滅する
これが私だという、確たる実体などない
2018-01-13 10:50:00
芸術が見ているもの
芸術における価値基準の根拠は
「幸福」ではない
言い換えれば
客観的合理性の追求による、幸福なる要件の実現
ではない
人生に意味などあるはずがない
芸術が扱うものは、人間のそのままの心でしかない
そして
そのままの心に、人生の在り様を観察し見出すことでしかない
人間は、割り切れない何かに価値を見ている
2018-01-12 07:50:00
神仏の夢想
脳の中にある1000億の神経細胞自体には
意識を生み出す力はない
がしかし
その1000億の神経細胞の活動による相互関係から
人間に意識が生まれると考えられる
仏陀の教えは
この世は、相対的関係性により成り立つという「縁起」に集約される
個々の人間とは関係なく
その相対的関係性による、超越したさらなる意識が生み出されるとしたら・・・
そう夢想するのは、私一人であろうか?
春の夜の夢
2018-01-11 11:49:00
メタ認知
目の前のテーブルの上に、赤いリンゴがあります
がしかし、私はその赤いリンゴ自体を知ることはできません
私が知りうるのは
私の外にある物体を、写像として脳内で処理したイメージだけです
私の認識する赤いリンゴのイメージは、私という主体から独立した客体ではなく
私の脳神経細胞の活動を、外から眺めるがごとく認識しているに過ぎない
自分自身の一部分である脳神経活動を、自分の外から観察するかのような
認識のプロセスをメタ認知といいます