702講義室
2018-03-26 15:15:00
人間の景色
「私は、この目で見たものしか信じない!」
とか言う人がいます
これは
自分の目に見えているもの、脳が認識しているものが
客観的真実であるという前提に基づく態度でしょうが
ならば
人間は、外界の様相をありのままに知覚することができるのでしょうか?
結論から言って
人間が知りうる外界の様相は、人間の脳がでっちあげた創作物でしかありません
よく言われるたとえに、携帯電話の着メロがあります
誰かから電話がかかってくると、電波が携帯に着信して着メロが鳴る
がしかし
その曲目は、携帯電話側の設定であって、電波とは関係がない
同様に
人間が認識する色は、電磁波とは関係がない
電磁波には、赤だとか青だとかの情報は含まれておらず
人間の脳の側の勝手な設定でしかないのです
だから、人間以外の動物の大半は、同じ色など見ていません
しかも
人間の脳は、電磁波の入力さえ無しで、色を見ることがあります
さらに
色や形、動き、奥行きなどに分類される視覚情報処理システムは
後天的に、大脳皮質に作られるものであって
人間には、視覚認識能力が先天的に備わっているわけではないのです
ならば
人それぞれ視覚認識が違ってもおかしくないことになります
現に
手術による開眼者には、数十年の視覚訓練が必要とされ
それでも健常者と同じ視覚能力を獲得することは難しいのが現実です
もっと言えば
見たことのないものは、それが何であるかなどわかるはずがありません
目の前に広がる現実世界は、脳の創り上げたフィクションの世界でしかないのです
2018-03-24 22:01:00
リンゴであるということ
いきなり本題ですが
「結びつけ問題」に素朴な疑問があります
わんぱく小僧が、目覚まし時計に興味を持って
バラバラに分解して観察したうえで
もう一度、組み立て直そうとする行為に
「結びつけ問題」をなぞらえることがよくあります
私の素朴な疑問は
最初から、わんぱく小僧が、それを目覚まし時計だと分かっているという前提にあります
解りやすいように、視覚情報に絞って考察してみたいと思います
「目の前の白いテーブルの上に、赤いリンゴが1個のっています」
私が、このリンゴの絵を描くときどうするか?
カメラを持ってきて、写真を撮り、プリントします
この写真の2次元情報を、キャンバスの2次元情報に置き換えるだけです
つまり、写真のこの位置の赤い色を、キャンバスのこの位置塗る
その結果として、リアルなリンゴの絵が完成します
2次元平面である網膜に入ってくる視覚情報は、光のシャワーのようなものです
この情報を脳は、一次視覚野において、いったんバラバラに分解して、組み立て直すということですが
その分析とは
どんな直線、曲線があるか
どんな色が、どこにあるか
どこかに動き、変化があるか
ということなどでしょう
この時点では、リンゴもテーブルもないはずです
これら、別々の要素で分析された2次元情報
(色だけにされた情報と線だけにされた情報)が
レイヤーのように重なり合った時に、初めて
何らかの1個体であると、背景から分断判別され、さらに記憶と照合した結果
これは、リンゴだ
これは、テーブルだ
ということになるはずです
個体存在の認識が先にあって、その個体が
どんな形であるか
どんな色であるか
どんな動きをしているか
という順番でバラバラに分析、記憶するのではないということです
つまり、全く同じ情報でも
赤と白い色をした1つの物体として、全く違う判別になることもありうるということです
ある個体に、リンゴであるための色や形の要件をピックアップして結びつけるのではなく
丸い形で赤い色が重なったときに浮かび上がる個体存在の認識に、リンゴかもしれないという解釈が結びつくという順番になる、、、というニュアンス?
結びつけるのではなく、ついたときに認識がおこる
リンゴであるための、丸い形や赤い色という要件は
後から別に、脳の前頭葉で(逆方向から)なされた分析であって
結び付けは、それによってなされているわけではない
のではないか?という疑問です
2018-03-23 20:26:00
色と音は、同じものなのか?
「共感覚」というのを聞いたことがあると思います
ある刺激に対して、その本来の感覚に、ほかの感覚が伴って生ずる現象のことで
例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする
というやつです
よく言われる
「黄色い声」とか「シャープな味」とか「渋い色」などは
感覚としてわかるのですが
ピアノの「ド→赤」とか「レ→すみれ」とか「ミ→黄」とか
ましてや、数字の「5→緑」とか「2→赤」などは
私には、さっぱり理解できません
脳内における視覚を司る部位と、聴覚を司る部位などに混線が生じることによって共感覚が起こる
ということらしいのですが・・・・・
さて、ここでとんでもない疑問が出てきます
音を聞いたときに、音は普通に聞こえている
その上で、色も見える
ということは
空気の振動として入力された刺激が、鼓膜などで電気信号に変換され
聴覚を担当する脳内の部位に送られ、音として認識される
と同時に
その同じ電気信号が、視覚を担当する部位にも送られてしまい
色としても認識されたことになる
ならば
音の電気信号も、色の電気信号も
同じフォーマット、同じレベルの情報ということになるのか?
「ド」という音が、真っ白や真っ黒やぐちゃぐちゃの色ではなく
「赤」という色が、爆発音でもなければ、ノイズでもない
「ド←→赤」という整然とした対応関係にあるということになる
ということは
つまり
視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚とは
同一の情報形態であるということになり
処理される、脳内の部位が違うだけで
同じものということになる
2018-03-20 22:10:00
第三の意識
アニミズムとは
原始宗教の神秘的信仰形態の一つで、自然界のあらゆるものに霊魂が宿っているとする信仰のことである
道端の石ころにも、草花にも、森にも、湖にも宿る霊から始まり
地球にも、太陽にも、銀河系にも遍在し、宇宙そのものであるとされる神
と
「意識は、神経ネットワークの上を神経インパルスが走るという、脳の物理的な機能から生まれる」という、脳科学からの所見が
符合しているかのように見えてしまうことに、興味をそそられます
「ネットワークと信号さえあれば、程度の差はあれ意識は生まれる」
のであれば
インターネットに意識がなくてはならないことになる
さらに、気が付いたことに
「私」と「あなた」がいれば
それは、ネットワークと信号そのものであり
「私」でも「あなた」でもない第三の意識がそこにあることになる
その意識とは、誰で、いったい何を考えているのだろうか?
家族、学校、会社、地域社会、日本国・・・・・
とは、それ固有の意識体であるのか?
それは、私の意識とは全くの別物なのか?
それとも、私は他の意識体の中の意識なのか?
私は、何処にいるのだろうか?
2018-03-19 11:14:00
自画像としての静物画
イーゼルに真っ白いキャンバス
椅子に腰かけ
白いテーブルには真っ赤なバラの一輪ざし
ゆったりと流れるアトリエでの一コマです
さて私は、このバラの何を描けばいいのでしょうか?
バラは、赤い色などしていません
私がバラだと認識するこの原子の集合体が反射した
周波数域が大体700nmあたりの電磁波は
赤色とは何の関係もありません
この周波数700nmの電磁波を網膜上の視細胞が感知し
電気信号に変換された情報が脳の一次視覚野に送られ
人間の脳のシステムに従って赤い色の質感に変換されます
つまり
赤い色とは、人間の勝手な都合でしかないのです
では、この赤いバラの隣に
プラスチックでできた同じ色のバラを置いてみましょう
どちらも周波数700nmの電磁波を反射するバラであるにもかかわらず
ずいぶん違った印象を感じます
明らかに、クオリアの違いからくる違和感でしょう
そして、私の記憶にあるバラ
その思いが、目の前にあるこのバラに彩りをくわえ
私固有のバラとして、目の前に存在させているのです
そもそも、記憶にないものは認識することすらできないのですから
だから
目の前の赤いバラは、私の勝手な都合でしかないのです
話を元に戻しましょう
私は、そんな実体の無いこのバラの何を描けばいいのでしょうか?
大事なことは
誰でもない私、わたしであるということでしょう