2018-01-15 07:42:00
茂木健一郎氏の著書に
「悟り(全知感)に対する懐疑」を論考している箇所があります
意識の変性状態での至福感
「世の中に自分が知らないことは何もなく、すべては満たされた状態にある(引用)」に違和感を覚える
「悟りにおける全知感は、実は何も具体的なことを知らない状態、すなわち無知の状態に他ならないのではないだろうか(引用)」
現実的質感においては、何ら異論はないのだが
少し、私の考えを記録しておきます
すべてを知っているとはどういうことなのか?
情報は
抽象度が低いほど(具体度が高いほど)包括する範囲は狭くなるが、情報量は多くなり
抽象度が高いほど、包括する範囲は広くなるが、情報量は少なくなります
ミケちゃん・三毛猫・猫・ほ乳類・生物・・・
後ろに行くほど、抽象度が高くなり、ほ乳類には犬も人間も包括され広がるが、具体度は下がり情報量は少なくなります
おっしゃる通り、どんなに賢い人でもすべてを知りつくすことは不可能です
がしかし
知性の高さとは、知識量の多さではなく、抽象度の高さではないでしょうか?
ご指摘の
「すべてを知っているとは、もはや何も新しいものを知る必要はない」という意味にはならないと思います
茂木健一郎氏の論拠は
「ゼロは無限大に等しい」ということから始まっていますが
抽象度が限りなく高くなった状態を「悟り」とするなら
包括される範囲は、限りなく無限大になり
情報量は、限りなくゼロに近づいていく道理であると考えます