702講義室
2017-01-29 06:03:00
仏陀の捨てたもの
あの日、菩提樹の木の下で
仏陀は何を捨てたのだろうか?
時間は4番目の次元として時空間に確かに実在し
未来や過去は現在に対比する概念として存在する
がしかし、そこから
明日という幻を人間は作り出すこととなった
明日という概念を想定してしまったがゆえに
人間は、不安という幻に生きることとなった
仏陀は、明日という概念を否定したのではないだろうか?
托鉢は明日の命の否認であり
歩行禅としての布教行脚は
今を確かに生きる瞑想行である
仏陀は、自らの生き様において
生命と時空の関係様を布教した
時間も空間も今ここにある
時間も空間も今ここにしかない
一念三千
明日に生きてはならない
今この時を確かに生きよ
2017-01-28 08:53:00
仏陀は救われたのか?
それで仏陀は救われたのだろうか?
あの日、菩提樹の木の下で
仏陀は何をしたのだろうか?
捨てた
人間の生み出した現実
あの日、菩提樹の木の下で
仏陀は何を見たのだろうか?
無彩色の宇宙
それで人は救われるのだろうか?
2017-01-27 08:43:00
人間の矛盾
自我とは、煩悩そのものであり
煩悩とは、生命エネルギーである
煩悩とは、生きる喜び 目的あり、
煩悩を捨て悟りにいたることと
意義ある人生とは両立しえない
心とは現象であり実在はしないが、
機能、働きとしては存在する
連続性を持つ心の働きを自我という
生命活動と心の働きは同じ様相であり
生命なきところに自我は存在しえず
悟りにより消滅する自我に救済はない
煩悩とは生そのものであり
悟りとは死そのものである
生きている限り人間に救いはなく
人間の生きる目的は死でしかない
?
2017-01-26 07:42:00
結論その3
我々の生きる現実世界とは
我々個々人の抱く煩悩の映し絵に他ならない
すなわち
人間は煩悩から逃れるすべはないのだ
煩悩を滅する修行もまた煩悩であり
生きとし生けるものの救済を願う
仏の請願とは、究極の煩悩なのである
人間の苦は煩悩より生まれるゆえ
煩悩が生み出すこの世が苦である
ことは、しごく当たり前のことである
このような図式の中で人間はいかに
生きればいいというのであろうか?
幻であるこの世の様にとらわれるかぎり
救われることはないであろう
空願と仮願によって
空でもあり仮でもある自分自身を徹底的に
見つめることから始めなければならない
あらゆる角度から、さらに過去未来という時間をも
超えて自分自身を見つめ直すことにより
この世はいかようにもその様相を変える幻である
ということを見極め
現在の自分をあらためて解釈しなおしたうえで
自分自身を徹底的に肯定する
煩悩を極限まで肥大させることは
自分自身の枠を超へ
生きとし生けるものすべてを肯定する
ことにつながる
2017-01-25 15:26:00
結論その2
この世はしょせん幻
生きている意味などない
そう言われても、現に生きている人間にとって
到底納得できる話ではありません
ならばどうすればいいのか
空観(くうがん)
この世は心の生み出した幻影である
仮観(けがん)
幻であるこの世は現実に存在する
この事実を受け入れたうえで
中観(ちゅうがん)
空でもあり仮でもある自分を諦め(明らかに見極め)
徹底的に自分自身を肯定する
それは、肯定という情報に書き換えるということです