702講義室
2017-02-18 09:53:00
宗教とは何者か?
人間は、記憶との照合により物事を認識する
目の前に広がる現実は、記憶により成り立つ
宗教とは
人間の潜在記憶・意識の統一を目的とした
人工の社会制御システムではないのか?
2017-02-16 09:40:00
専修念仏という革命
源平争乱や飢餓に翻弄され、死を目の当たりにする民衆にとって
もはや、律令も王法も仏法もへったくれもない危機的状況において
法然の一心は、民衆の救済に集約します
自力行による悟りの難しい凡夫には
ひたすら念仏を称へ
阿弥陀仏に救ってもらう浄土門しかない
法然は、その論理を『無量寿経』に求めます
法蔵菩薩が悟りを開くに、四十八願の誓願をたてた
その第十八願に、専修念仏の根拠を見出します
「阿弥陀仏は、我が名を称える者なら
どんな者でも浄土に迎えて必ず仏とする」
弥陀の本願により、どんな凡夫でも他力により浄土門に入れる
これは、仏教史においてかつてあり得ない大胆な発想であった
2017-02-15 08:08:00
砂上の称名念仏
法然は、すべての経典を読みつくした
その認識の上で
称名念仏の根拠を考察してみます
念仏開眼のきっかけは
永観の『往生拾因』にある「一心専念」という一説から始まります
『往生拾因』は、善導の『観経疏』を説明したものです
『観経疏』とは、浄土三部経の一つである『観無量寿経』の注釈書です
「一心専念」に、源信の『往生要集』による「観勝称劣」を否定する
「口称念仏」の重要性が書かれていました
そして、『観経疏』の中の「散善義」に次の一文を発見します
「いかなる時でも、念仏を称えることが往生へに正しい道であり
それは阿弥陀仏の本願に準じていることだ」
この一文だけです
そして、注釈経典である『観無量寿経』について補足すると
「古代インドのマガダ国の王子の阿闍世が提婆達多に
そそのかされて父王を殺害した悲劇の物語」です
がしかし、
これは釈迦入滅後に教団内部で主導権を握った
摩訶迦葉主流派のでっちあげです
玄奘三蔵の『大唐西域記』に
7世紀のインドに提婆達多の教団が存続している記述があります
また
法顕の『仏国記』にも5世紀に提婆達多の教団を認めています
釈迦に叛逆し殺害しようとした仏教教団が
1200年以上も存続しているはずなどありえません
しかし、法然にその旨を知る由もなかったでしょうが・・・・・
2017-02-14 09:26:00
法然の逆襲
すべての人間が救われる
法然の意図はこの一点に集約されます
ついに法然は、仏教という洗脳から覚めてしまいます
それは、この世という幻想からの覚醒でもあった
そして、目的遂行のために仏教を逆手に取ることとなる
それは、伝来の国家仏教に対する復讐でもあった
法然の専修念仏は、仏教という形をとりながら
法然は、中国伝来の仏教学を全否定してしまう
法然の遺言書に 一枚起請文 があります
只々、一心に阿弥陀仏のみを信じろ!
伝来の仏教を学んだからといって意味はない
それは、阿弥陀仏に対する不信という反逆行為を意味する
そして、念仏の全責任は法然にあると・・・
血を思わせる両手の朱印が押してあります