2017-02-15 08:08:00
法然は、すべての経典を読みつくした
その認識の上で
称名念仏の根拠を考察してみます
念仏開眼のきっかけは
永観の『往生拾因』にある「一心専念」という一説から始まります
『往生拾因』は、善導の『観経疏』を説明したものです
『観経疏』とは、浄土三部経の一つである『観無量寿経』の注釈書です
「一心専念」に、源信の『往生要集』による「観勝称劣」を否定する
「口称念仏」の重要性が書かれていました
そして、『観経疏』の中の「散善義」に次の一文を発見します
「いかなる時でも、念仏を称えることが往生へに正しい道であり
それは阿弥陀仏の本願に準じていることだ」
この一文だけです
そして、注釈経典である『観無量寿経』について補足すると
「古代インドのマガダ国の王子の阿闍世が提婆達多に
そそのかされて父王を殺害した悲劇の物語」です
がしかし、
これは釈迦入滅後に教団内部で主導権を握った
摩訶迦葉主流派のでっちあげです
玄奘三蔵の『大唐西域記』に
7世紀のインドに提婆達多の教団が存続している記述があります
また
法顕の『仏国記』にも5世紀に提婆達多の教団を認めています
釈迦に叛逆し殺害しようとした仏教教団が
1200年以上も存続しているはずなどありえません
しかし、法然にその旨を知る由もなかったでしょうが・・・・・