702講義室
2016-12-21 07:39:00
時間に関する考察(私見)
時間が過去から未来に向かって流れるのが
従来の西洋的認識で
キリスト教的価値観
↓
時間が未来から過去に向かって流れるのが
最先端科学および分析哲学での認識で
仏教的価値観
しかし、この時間に関する認識の劇的変化は
実は、同レベルのパラダイム変換にすぎない
正解はズバリ
↓
時間は流れたりしていない
時間軸を仮にX軸とすると
サンプリングされた時間(横)軸上の最小単位(プランク時間)で
連動しあいながら
量子的に(縦)その場で揺らいでいるだけなのだ
つまり時間とは
時間軸がひも状に振幅している状態
波が右へも左へも(未来へも過去へも)移動しているように見えるだけで
時間は流れてなどいないのだ
仮にわかりやすく、時間軸をX軸とすると
X軸上のサンプリングされた最小単位(プランク時間)で
Y軸方向に振動量(エネルギー)が量子化されるとする
Y軸±方向への振れ幅が大きいほど波は大きくなる
波の形状が同じであれば
大きい波はゆっくりと繰り返し
小さい波は小刻みに繰り返す
ことになる
この一周波がカバーする時間幅が
体感時間の差となって表れるのだ
つまり、大きいエネルギー振幅の波は
1つの波で長い時間をカバーするために
早く感じられ
小さいエネルギー振幅の波は
1つの波が短い時間しかカバーできないため
時間は遅く感じるわけである
2016-12-20 11:01:00
言語が現実をつくる
さて、日本人の定義とは何でしょうか?
民族、国籍など様々な分類様式がありますが
私が着眼点として重要視したいのは
日本語で思考する人という点です
思考は
思考に使用される言語によって
思考内容に拘束を受けます
同じ事象に関しても、使われる言語によって認識に差が生じます
同一人物であっても、同じ事象に対して
英語で認識するのと、日本語で認識するのと、中国語では
内容にニュアンスが違ってしまいます
さらに
ある認識に関して、それにあてはまる「単語」が存在しない場合
認識そのものができないということが起こりうるのです
ナポレオンの「私の辞書に『不可能』の文字はない」は
『不可能』といういう概念そのものがないということです
つまり
現実は、言語によって形作られる
と言ってもいいでしょう
2016-12-19 07:41:00
存在 または ここに在ること
一切皆空 (2013)
今から137億年の遠い昔、「無」としか言いようのないところに「小さなゆらぎ」が起こった。
ビッグバンの始まりの様子です。
この「小さなゆらぎ」が大爆発を引き起こし、原子銀河を生み、星を作り、私たち人間を作ることとなります。
現代物理学においては、真空の空間にある目に見えない「場」におこるさざ波のような「ゆらぎ」が、目に見える物質粒子として振る舞うと考えます。
私たちが、物事を認識するということは、物事の変化量を見ているということです。
均一でゆらぎがないという状態は、私たちには認識できません。
何らかの原因で、ゆらぎが生じて、一様性からのずれが生まれると、私たちの検知できる状態となり、何かが存在するということになります。
それは、「静かな湖面にそよ風が吹くと、水の表面にさざ波が立ち、そのことによって、そこに水があることがわかる」というイメージでしょうか?
この「ゆらぎ」の概念が、一連の作品全体における基本制作仕様、表現様式の意図するところです。
すさまじい勢いで膨張する宇宙は、しだいに温度を下げ、そこにレプトンとかクォークなどの基本粒子が生まれます。
私たちの宇宙とは、この基本粒子の離合集散によって、すべての物質、すべての自然現象が生起する宇宙なのです。
ところで、「存在する」とはどういうことでしょうか?
物理学では、あるものを測定したり現象の観測をおこなったりして、見るものと見られる相手との間に生ずる作用を通じて、相手の存在が確認できる状況のことを「何かが存在する」状態であると考えます。
素粒子は、「波動」としての性質と「粒子」としての性質を併せ持っています。
普通の状態では、1個の素粒子が1種の波動として、まるで霧か霞のように全宇宙に広がって分布しています。ところが、その「波動」として広がっている素粒子を人間が観測すると、突然どこか1点に凝縮して、「粒子」として現れます。
これが、量子論における「観測問題」に対する「実証主義」の「コペンハーゲン解釈」と言われるものです。
「意識を持った人間が観測をすることによって波動関数の収縮が起こる。つまり、観測することによって初めて、本来は無限に時空を超えて広がっている粒子というものが、局所的な存在として観測される。」ということです。
さらに、宇宙論における「人間原理」においては、いまあるような宇宙を存在させているのは、ほかならぬ人間の存在そのものであるとします。
「いま私たちが見ているような宇宙があるためには、そのように宇宙を見る人間の目がなければならない。認識する私たちがいるからこそ、宇宙は知られることができ、存在するといえるのだ。」ということです。
作品『諸行無常』『一切皆空』は、「存在 または ここに在ること」という問題意識をベースに、そのタイトルどおり仏教的世界観のもと「この世のあわれ」を表現しております。
さて、仏教に「唯識」という概念があります。
「唯識」とは、「目に見える、この物質的な宇宙は、実は人間の意識が作り出している」というものです。
この「唯識」という概念は、量子論の「コペンハーゲン解釈」及び宇宙論の「人間原理」と、ほとんど内容を一致するものであると、私は解釈します。
「唯識」を量子論的に解釈すると、「私たちは、現実にある物質がここに存在すると信じているわけですが、ここにあるのは波動関数だけである。私たち人間が見ると、その波動関数が収縮を起こして、その結果、私たちはそれを物体として認識しているに過ぎない。つまり、本当はすべてが波動関数であって、その波動関数を物質に翻訳しているのは人間の意識に過ぎないのだ。」ということになります。
実在するとは、見るものと見られるものとの関係において初めて成り立つ概念です。
そこで、仏を「観測する側の目」として登場させました。
ただし、仏を人間を超越する絶対的存在であるというポジションではなく、人間そのものを仏として取り上げております。
それは次のような解釈によるものです。
「波動関数によって表現される場合、素粒子で構成される人間もまた、時空に無限に広がっている存在である。ならば、観測していない時には人間もまた、すべての時空に広がっている波動関数である。つまり、全宇宙は、全体として溶け合っており、人間もまた宇宙と一つの存在である。
生まれながらに仏性をもつすべての人間は、宇宙に偏在する仏と合一の存在である。」という意味合いからです。
それに対する「観測される側」の事象、世俗的世界観として「浮世絵、春画」を素材として使用しました。
「浮世絵」は、明治以前の世俗文化を象徴する日本本来のアイデンティティとして、また「春画」を、ただ生きて命をつなぐだけの何ら意味など持たない人間の一生、人間の存在そのものの営みの象徴としての意味合いを持たせております。
色即是空 空即是色
「色」とは、私たちの五感で感じたり触れたりできるもの、つまり生滅をともなう物質現象のことでしょう。
「空」とは、すべてのものを生み出し、すべてのものが帰っていくであろうところを意味しています。
粒子であり波動でもあり、対生成・対生滅の世界観そのものでしょう。
この世に生起するすべての事象は、ともに深くかかわりあいながら、移ろい、かたときもとどまることを知りません。
水面にゆらいでは消えるはかない泡のように、すべてはうたかたの夢のごとし。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
そして、私の目の前に展開する現実世界は、私の認識の外には存在しえない。
妙観察智(みょうかんざっち)存在とは私の内にあり、存在とは私そのものである。
「観察する側」も「観察される側」も、すべては渾然一体となり、ゆらぎの中に深く静かに溶け合う。
諸行無常 (2013)
2016-12-18 08:13:00
唯物論から唯識へのパラダイム変換
現実世界とは、どのような世界なのでしょうか?
絶対的な世界、物理世界がひとつあって
それを人々が、それぞれに認識する世界
というのが、これまでの考え方でした
でも、これはキリスト教の概念なのです
西洋の伝統的哲学、唯物論からなるものです
がしかし、近年のめざましい物理学(量子論)の発展により
これでは宇宙の成り立ちを説明出来ないことがわかってきました
真空を観察した瞬間、そこに素粒子が生まれる
すべては、存在に先んじて認識があるというのです
これは東洋哲学、唯識に近い概念です
唯識とは
我々の見ている世界は、すべて認識の中にある
逆に、認識の外のものは存在しない
というものです
これは、脳科学でいう内部表現と同じ世界観です
内部表現とは
脳と心の中で認識している世界のすべてのこと
内部表現こそが現実世界そのものなのです
現実世界は、認識する人の数だけ存在するのです
いいえ
自分が認識している世界だけが現実世界なのです
2016-12-17 08:43:00
現実世界=物理世界+情報世界
現実世界とは
物理空間と情報空間を合わせたものである
物理空間は情報空間の一部であり
抽象度の最も低い階層に位置する
たとえば、目の前の赤いコップは
物体が反射した電磁波を網膜上の視細胞が受光し
錐体細胞が色として、桿体細胞が明暗として
入力された信号情報を脳が画像として処理する
海馬で選別された情報は、前頭葉に送られ
過去の記憶と照合され、それが「コップ」であると認識される
過去の記憶が別のものであれば「コップ」とは認識されない
さらに、その「コップ」にまつわる記憶が追加され
さまざまな認識が付随することとなり
その「コップ」が、その人固有の意味を持つことになる
物体そのものではなく、情報によって物体が意味を持つことになる
つまり
「コップ」という現実は、情報そのものである
赤いコップにまつわる情報が、昨年度の受験失敗であれば
そのコップは、不幸の象徴としての意味を持つことになるが
来年、東京大学にまぐれで合格したとすると
そのコップは、幸福のお守りとなるやもしれない