702講義室
2016-12-19 07:41:00
存在 または ここに在ること
一切皆空 (2013)
今から137億年の遠い昔、「無」としか言いようのないところに「小さなゆらぎ」が起こった。
ビッグバンの始まりの様子です。
この「小さなゆらぎ」が大爆発を引き起こし、原子銀河を生み、星を作り、私たち人間を作ることとなります。
現代物理学においては、真空の空間にある目に見えない「場」におこるさざ波のような「ゆらぎ」が、目に見える物質粒子として振る舞うと考えます。
私たちが、物事を認識するということは、物事の変化量を見ているということです。
均一でゆらぎがないという状態は、私たちには認識できません。
何らかの原因で、ゆらぎが生じて、一様性からのずれが生まれると、私たちの検知できる状態となり、何かが存在するということになります。
それは、「静かな湖面にそよ風が吹くと、水の表面にさざ波が立ち、そのことによって、そこに水があることがわかる」というイメージでしょうか?
この「ゆらぎ」の概念が、一連の作品全体における基本制作仕様、表現様式の意図するところです。
すさまじい勢いで膨張する宇宙は、しだいに温度を下げ、そこにレプトンとかクォークなどの基本粒子が生まれます。
私たちの宇宙とは、この基本粒子の離合集散によって、すべての物質、すべての自然現象が生起する宇宙なのです。
ところで、「存在する」とはどういうことでしょうか?
物理学では、あるものを測定したり現象の観測をおこなったりして、見るものと見られる相手との間に生ずる作用を通じて、相手の存在が確認できる状況のことを「何かが存在する」状態であると考えます。
素粒子は、「波動」としての性質と「粒子」としての性質を併せ持っています。
普通の状態では、1個の素粒子が1種の波動として、まるで霧か霞のように全宇宙に広がって分布しています。ところが、その「波動」として広がっている素粒子を人間が観測すると、突然どこか1点に凝縮して、「粒子」として現れます。
これが、量子論における「観測問題」に対する「実証主義」の「コペンハーゲン解釈」と言われるものです。
「意識を持った人間が観測をすることによって波動関数の収縮が起こる。つまり、観測することによって初めて、本来は無限に時空を超えて広がっている粒子というものが、局所的な存在として観測される。」ということです。
さらに、宇宙論における「人間原理」においては、いまあるような宇宙を存在させているのは、ほかならぬ人間の存在そのものであるとします。
「いま私たちが見ているような宇宙があるためには、そのように宇宙を見る人間の目がなければならない。認識する私たちがいるからこそ、宇宙は知られることができ、存在するといえるのだ。」ということです。
作品『諸行無常』『一切皆空』は、「存在 または ここに在ること」という問題意識をベースに、そのタイトルどおり仏教的世界観のもと「この世のあわれ」を表現しております。
さて、仏教に「唯識」という概念があります。
「唯識」とは、「目に見える、この物質的な宇宙は、実は人間の意識が作り出している」というものです。
この「唯識」という概念は、量子論の「コペンハーゲン解釈」及び宇宙論の「人間原理」と、ほとんど内容を一致するものであると、私は解釈します。
「唯識」を量子論的に解釈すると、「私たちは、現実にある物質がここに存在すると信じているわけですが、ここにあるのは波動関数だけである。私たち人間が見ると、その波動関数が収縮を起こして、その結果、私たちはそれを物体として認識しているに過ぎない。つまり、本当はすべてが波動関数であって、その波動関数を物質に翻訳しているのは人間の意識に過ぎないのだ。」ということになります。
実在するとは、見るものと見られるものとの関係において初めて成り立つ概念です。
そこで、仏を「観測する側の目」として登場させました。
ただし、仏を人間を超越する絶対的存在であるというポジションではなく、人間そのものを仏として取り上げております。
それは次のような解釈によるものです。
「波動関数によって表現される場合、素粒子で構成される人間もまた、時空に無限に広がっている存在である。ならば、観測していない時には人間もまた、すべての時空に広がっている波動関数である。つまり、全宇宙は、全体として溶け合っており、人間もまた宇宙と一つの存在である。
生まれながらに仏性をもつすべての人間は、宇宙に偏在する仏と合一の存在である。」という意味合いからです。
それに対する「観測される側」の事象、世俗的世界観として「浮世絵、春画」を素材として使用しました。
「浮世絵」は、明治以前の世俗文化を象徴する日本本来のアイデンティティとして、また「春画」を、ただ生きて命をつなぐだけの何ら意味など持たない人間の一生、人間の存在そのものの営みの象徴としての意味合いを持たせております。
色即是空 空即是色
「色」とは、私たちの五感で感じたり触れたりできるもの、つまり生滅をともなう物質現象のことでしょう。
「空」とは、すべてのものを生み出し、すべてのものが帰っていくであろうところを意味しています。
粒子であり波動でもあり、対生成・対生滅の世界観そのものでしょう。
この世に生起するすべての事象は、ともに深くかかわりあいながら、移ろい、かたときもとどまることを知りません。
水面にゆらいでは消えるはかない泡のように、すべてはうたかたの夢のごとし。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
そして、私の目の前に展開する現実世界は、私の認識の外には存在しえない。
妙観察智(みょうかんざっち)存在とは私の内にあり、存在とは私そのものである。
「観察する側」も「観察される側」も、すべては渾然一体となり、ゆらぎの中に深く静かに溶け合う。
諸行無常 (2013)