702講義室
2017-01-26 07:42:00
結論その3
我々の生きる現実世界とは
我々個々人の抱く煩悩の映し絵に他ならない
すなわち
人間は煩悩から逃れるすべはないのだ
煩悩を滅する修行もまた煩悩であり
生きとし生けるものの救済を願う
仏の請願とは、究極の煩悩なのである
人間の苦は煩悩より生まれるゆえ
煩悩が生み出すこの世が苦である
ことは、しごく当たり前のことである
このような図式の中で人間はいかに
生きればいいというのであろうか?
幻であるこの世の様にとらわれるかぎり
救われることはないであろう
空願と仮願によって
空でもあり仮でもある自分自身を徹底的に
見つめることから始めなければならない
あらゆる角度から、さらに過去未来という時間をも
超えて自分自身を見つめ直すことにより
この世はいかようにもその様相を変える幻である
ということを見極め
現在の自分をあらためて解釈しなおしたうえで
自分自身を徹底的に肯定する
煩悩を極限まで肥大させることは
自分自身の枠を超へ
生きとし生けるものすべてを肯定する
ことにつながる
2017-01-25 15:26:00
結論その2
この世はしょせん幻
生きている意味などない
そう言われても、現に生きている人間にとって
到底納得できる話ではありません
ならばどうすればいいのか
空観(くうがん)
この世は心の生み出した幻影である
仮観(けがん)
幻であるこの世は現実に存在する
この事実を受け入れたうえで
中観(ちゅうがん)
空でもあり仮でもある自分を諦め(明らかに見極め)
徹底的に自分自身を肯定する
それは、肯定という情報に書き換えるということです
2017-01-24 08:16:00
結論その1
この世は幻でしかないのだから
生きていることに意味はない
人生は苦でしかないのなら
いっそ死んだ方がましだ
これは正しい
人間は構造的に救われないようになっている
そもそも、ほとんどの宗教は出家至上主義である
出家とは、疑似死状態に身を置くことです
世間との関係性を絶ち
煩悩を滅することによって
あらゆる苦悩から解放され
自分だけが救われようとする行為に他なりません
煩悩とは生命エネルギーそのものです
煩悩を完全に絶つとは死を意味します
つまり、自殺するということです
でも、死人に宗教は必要ありません
だから疑似死状態に身を置くのです
では神とは、煩悩を滅した象徴なのでしょうか
逆です
宗教が教えるところは、究極の煩悩なのです
自分の救済を願い、天国だとか永遠の魂を求めるものです
煩悩は「自分さえ救われたらいい」から始まって
他人より優越する自分、他人より幸せである自分を求める
ところが、このような煩悩をとことん極大化していくと
究極的には
全人類、生きとし生けるものすべての幸福を求める
という所にまで行き着かざるを得ない
行きついてしまうのです
阿弥陀如来は、すべての人間の救済を誓った仏様なのです
これほどの煩悩があるでしょうか?
人間が救われるには
煩悩を滅するか、悟って仏様になるか
どちらかです
どちらも無理でしょう
ならばどうしろというのか?
2017-01-23 09:11:00
内部完結
この世に平等などということはあり得ない
相対的関係には、必ず優劣が発生する
優劣は、評価基準によって判断されるが
ルールとは、どちらかの都合でしかない
煩悩とは他に対する優越に他ならない
そこに抵抗が生まれるのは必然である
自分の幸が他人の不幸をより所とする限り
自分が幸せになることは永遠にあり得ない
自分さえ勝てばいいではないか
他人を負かす必要などないのだ
相対関係におけるを抵抗を極力回避し
物理法則に反しない情報の書き換えは
この世に現実化できる
自分を他人に強要してはいけない
2017-01-22 05:07:00
全否定
「なぜ宗教者は、妻帯・性行為を禁じられるのか?」
それは新たに子孫を残さないため
永続する人間存在そのものの否定なのだ
「なぜ覚者は、輪廻から解脱するのか?」
それは人間界そのものの否定なのだ
そして地獄も、天界もまた否定される存在なのだ