702講義室
2017-03-21 08:32:00
お釈迦様の手のひら
お釈迦様の手のひらとは
人間の脳のことである
私の認識しているこの現実世界は
何処まで行っても、私の脳機能から逃れることはできない
五感を通して入力された刺激は、電気信号となり脳へと伝えられる
脳はその情報を選別し、過去の記憶と照合しながら情報処理を行う
これにより認識された世界を、認知心理学では「内部表現」という
(それに対する「外部表現」という概念はない)
たとえば、目の前に広がる景色は、モノそのものでもなく
モノに反射された電磁波を素材とした脳の創作物であり
そのような世界がそのままそこにあるわけではないのだ
さらに、人間は
自分にとって重要であること、記憶(知識)にあることしか
認識することはできない
他の情報は、脳のフィルタ機能により選別され処理されない
つまり、存在しないのだ
私が、そうだと確信しているこの世界での出来事は、すべて
私の脳の中でしか存在しえない私固有の世界でしかなのだ
2017-03-20 06:53:00
非日常の景色
怒りと欲望 苦痛と快楽
浮かんでは消える取り留めのない思考の迷い
この思考のふらつきを、はっきりと意識する時
また
視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚
五感による外界からの刺激にしっかり意識を向ける時
そして
心を、今ここに定める時
意外にも
日常と違った世界がそこに現れる
人は、今ここになど生きていないのだ
支離滅裂で脈絡のない世界から抜け出さなければならない
人間は自分の脳に騙されている
2017-03-19 09:58:00
生命の無価値
人間は必ず死ぬ
命あるものは必ず死ぬ
さらに
生命は、食物連鎖による継続システムであるために
殺し合うことによってしか、個体生命を維持することはできない
ならば
死にどれほどの忌み嫌う理由があるのだろうか
生命に本質的な価値など無いのではないか?
命の継続を前提として、未来への夢や希望は生まれる
がしかし
訪れる死に対し、不安と恐怖もまた生まれることになる
明日への不安は、死に対する本能的恐怖と
社会的、洗脳的価値観により形づくられる
幻のために、今を生きてはいけない
生きるからこそ、不安は生まれるのだ
明日死ぬのなら何の不安もない
2017-03-18 00:27:00
政治的自由 宗教的自由
この世は関係性によって成り立つ
私という存在を、私単独で定義することはできない
他者の存在がなければ、私という概念そのものもなく
他者との関係性によって初めて、私は存在しうる
さらに
私の認識する現実世界は、私固有の脳内宇宙であり
そこに登場する他者の姿は、物理空間を共有する
他者固有の宇宙の影であり、私の宇宙とは別宇宙である
成功は他宇宙との調和であり
失敗は他宇宙との軋轢である
言い換えれば
成功は他人の協力であり
失敗は他人の妨害である
ならば
他を完全に支配しきるか
他を切り捨てることでしか
完全に自由にはなれない
2017-03-17 09:08:00
同じ顔 違う表情
相手に
しゃべりたいことを、しゃべりたいように
しゃべりたいだけ、しゃべらせてあげ
相手の
言ってほしいことを、言ってほしいように
言ってほしいだけ、言ってあげると
確かにそれで、うまくはいくけれども
それは
自分に
妄想したいことを、妄想したいように
妄想したいだけ、妄想させてあげ
自分に
言い訳したいことを、言い訳したいように
言い訳したいだけ、言い訳させてあげるのと
同じ意味であり
相手を、最低の人間に貶める結果にもなりうる・・・
がしかし、そのように考えること自体もまた、身勝手な傲慢であり
自分の正解を無理やり相手に押し付けるよりは、マシとも思える
と、また
そのような言い訳のもとに
その実、相手の失敗を密かに望んでいるのだ