702講義室
2018-01-24 07:38:00
芸術の宿る場所
誰もが芸術だと認める、ゴッホの「ひまわり」
さて
具体的に、この作品のどの部分が芸術なのでしょうか?
黄色い色なのか?燃えるようなタッチなのか?
構図なのか?モチーフである向日葵そのものなのか?・・・
どれも違うと思います
芸術などという大それた概念を受け止めるほどのものではないでしょう
それでは、すこし話を変えます
生きている人間のどこに命があるのでしょうか?
心臓にあるのか?脳にあるのか?それとも他の器官にあるのか?・・・
どこにもありません
じゃ
心は、どこにあるのでしょうか?
脳の神経細胞をすべて探しても、みつからないでしょう
命にも、心にも実体などありません
しかし
私たちは確かに生きているし、心は存在します
命という実体はないけれども、生命活動はある
心という実体はないけれども、意識活動はある
それと同じように
芸術という実体はないが、芸術活動があるから芸術なのだ
芸術とは、実体にではなく、恒常的活動に宿るものである
そう思うのです
例えば、ゴッホの「ひまわり」をそっくり模写しても
それは、芸術作品にはなりません
模写をした人に、ゴッホの芸術活動がないからです
芸術とは、そのようなものだと思います
2018-01-23 07:22:00
頭のいいやつ
幸せや安心を追い求めるから
不幸や不安に追いかけられることになる
幸せと不幸は、一対同質のものであり
安心と不安を切り離すことなどできない
そもそも
幸せとか、安心とかいったはなし自体が怪しいものだ
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
安心など原理的にあるはずがない
幸せをエサに、不幸で脅されてはいないか?
安心をエサに、不安で縛られてはいないのか?
そのようなもので、何かをごまかされているのではないのか?
幸せだとか、安心だとか、そんなものを考えたやつは
よっぽど頭のいいやつだろう
2018-01-22 16:13:00
それでも私はここにいる
わたしは、誰なのか?
そのことについて最近では、このように考えられています
私とは、他者との関係でしか定義できない、網目の交差した点のようなものだ
自我とは、過去の記憶に基づく評価関数である
いや、それでも私は、今ここに確かにいる
と、納得のいかない人は、多いのではないでしょうか?
その私とは、いったい何なのか?
それは
目の前に広がるこの世界、この世そのもの
自分が認識する、他人も、環境も、今ここすべてが
自分そのものなのです
すべては、わたしの中にある
すべては、私の脳の内部表現にすぎない
2018-01-21 12:48:00
私の美術 内在する価値
E=mc²
御存じアインシュタインの「質量とエネルギーの等価性」を表す関係式です
この美しい方程式を
数学という言語による究極の芸術作品だと思うのは
私だけでしょうか?
しかし
この芸術的価値は、表記された文字記号に局在するものではありません
過去から現代にいたる科学的知見の関係性の上で
さらには
背景となる歴史的、政治的、経済的関係性の上で
初めて大いなる意味を持ちえます
同様の意味において
現代の美術もまた、ラスコーの壁画を経た美術史の文脈の上に
人類の歴史、文化が内在化されて、初めて成り立つものといえるでしょう
表現された作品上にのみ、芸術の意味や価値があるのではないということです
2018-01-19 07:38:00
過去と未来の同時性
こんな思考実験
もし、アインシュタインがこの世に生まれていなかったら
もし、彼がブラックホールという概念を考え出さなかったならば
(彼に変わる人もいなければ)
永遠の過去にも永遠の未来にも
この宇宙にブラックホールは存在しえない
認識できないものは、存在しないのと同じことである
彼が、ブラックホールという概念を発表し認知された時点で
過去に遡り、ブラックホールはもともと存在し
未来に渡って、ブラックホールは存在し続けることとなるのだ
つまり
ある瞬間が、そこから見た過去と未来を同時に確定する
言い換えると
「今を起点に、過去と未来は同時に存在する」
そう言えるのではないか?