702講義室
2018-01-18 18:54:00
自論で恐縮です
天才芸術家、科学者の創造性、一流アスリートのパフォーマンスには
意識の変性状態が関係しているといわれている
変性意識は
瞑想、麻薬、臨死などにより引き起こされるとされるが
芸術家、科学者、スポーツ選手のそれとは直接的には結び付かない
足枷の外れたような意識の変性状態は
通常意識との関係において
どのように位置づけられるものなのだろうか?
通常の覚醒意識は、意識の一様相でしかないことは間違いない
それは
幻覚もまた、現実の一様相であることを示唆しているともいえる
すべては脳内活動でしかないのだ
芸術は、現実とは何か?を結果的に示唆表現することになる
2018-01-17 23:00:00
私の時空モデル(ノーベル物理学賞?)
時間と空間は同じものであるとする時空モデルは
アインシュタインよりも前のミンコフスキーより始まる
x,y,z軸からなる3次元空間に時間軸を足した座標系のどこかに、私は存在する
という4次元時空間モデルである
がしかし
時間の特殊性に、どうにも違和感をおぼえるのは私だけではないであろう
この、グローバル座標上に私がいて、時間は過去から未来に流れるという構図は
神の存在を前提とするユダヤ・キリスト教のモデルであることを認識しておく必要があります
対する、縁起思想(相対的関係性)を前提とする仏教的世界観は言うに及ばず
宇宙は、私の脳内現象、内部表現であると事実を踏まえると
私がグローバル原点でなければならないと考えるのは私だけでしょうか?
私がいるのは、つねにここであり
私がいるのは、つねに今でしかないのです
動いているのは、場所であり時間の方ではないのか?
それでも、一方向にしか流れない時間に関する不完全さはぬぐいきれません
そこで、私がの立てたモデルは次のようになります
仮に時間軸を、t軸とすると
t軸の原点が「今」であり、私である
+方向が「未来」
-方向を「過去」とします
さて、私は常に「今」にしか存在しません
この状態において、どのようにして時間は流れるのか?
実は時間は流れてなどいない
ただ振動しているだけだと考えます
t軸を一本のひもと考えてください
この両端をおさえて振動させると波が起こります
t軸上の各点においては、振動しているだけです
がしかし、波は移動しています
従来の時間感覚は過去から未来へ時間は流れると考えられていました
それはユダヤ、キリスト教の概念であることは先ほど述べました
現在の最先端である分析哲学、物理学、および仏教では、時間は未来から過去へと流れると考えます
私のモデルでは、波は右へも左へも移動しているように見えます
未来へも過去へも時間は流れているように見ることができます
さて、ここで振動幅の問題があります
振動するには、少なくとも直交するもう一軸必要ではないのか?
そのことも踏まえて、仮説を続けます
振動幅のひとつの基準としてプランクスケールが考えられます
10のマイナス44乗秒(1兆×1兆×1兆分の1秒)
時間をこれ以上分割すると時間の概念が成り立たなくなる限界値です
ですから、震動幅がプランクスケールを下回ると波は波として成り立たなくなる
つまり、時間は流れなくなり時間という概念が成り立たなくなる
それは
t軸が、ただの4番目の空間軸と同じになる事を意味するのではないか?
時間の不可解さの原因は
基本的に、人間は5次元以上を認識することができないのだが
何らかの原因により
5次元以上の影響が、4次元であるt軸に、直交方向への振動を許しているように見えてしまうため、t軸は空間軸ではなく別なる時間軸として人間には認識されてしまうのではないか?
以上が、今のところ私が仮説する宇宙モデルです
ここまで読んでくださった方にお礼を申し上げます
2018-01-16 10:35:00
コップの中の私
こんな思考実験があります
目の前に水の入ったガラスのコップがあります
この水の分子に、色をつけます
さて
色のついたコップの水を海に流したとして
世界中の海にまんべんなく拡散した後
再び、このガラスのコップで海水をすくい取ったとします
驚くことに
その中には、かつて色を付けた水の分子が十数個は入っているそうです
このことから、いろんな妄想を膨らませるのは私だけでしょうか?
かつて、レオナルドダビンチだった原子が
今、私の体の一部であっても何ら不思議ではない?
いや、地球上にかつて存在した多大なる人間の原子が
今、私の体の中で再び人間として存在しているかもしれない
いや、地球生命誕生から悠久の時を経て・・・・・
すべての生命の・・・・・
このような妄想に、何の意味もないと結論付けるのもよし
されど
意味をつけてこそ、現実は現実たるのだ
水という意味をつけてこそ、水は水でありうる
今私は、地球生命を代表している (^~^;)ゞ イヤァ~
2018-01-15 07:42:00
悟り(全知)に対する考察
茂木健一郎氏の著書に
「悟り(全知感)に対する懐疑」を論考している箇所があります
意識の変性状態での至福感
「世の中に自分が知らないことは何もなく、すべては満たされた状態にある(引用)」に違和感を覚える
「悟りにおける全知感は、実は何も具体的なことを知らない状態、すなわち無知の状態に他ならないのではないだろうか(引用)」
現実的質感においては、何ら異論はないのだが
少し、私の考えを記録しておきます
すべてを知っているとはどういうことなのか?
情報は
抽象度が低いほど(具体度が高いほど)包括する範囲は狭くなるが、情報量は多くなり
抽象度が高いほど、包括する範囲は広くなるが、情報量は少なくなります
ミケちゃん・三毛猫・猫・ほ乳類・生物・・・
後ろに行くほど、抽象度が高くなり、ほ乳類には犬も人間も包括され広がるが、具体度は下がり情報量は少なくなります
おっしゃる通り、どんなに賢い人でもすべてを知りつくすことは不可能です
がしかし
知性の高さとは、知識量の多さではなく、抽象度の高さではないでしょうか?
ご指摘の
「すべてを知っているとは、もはや何も新しいものを知る必要はない」という意味にはならないと思います
茂木健一郎氏の論拠は
「ゼロは無限大に等しい」ということから始まっていますが
抽象度が限りなく高くなった状態を「悟り」とするなら
包括される範囲は、限りなく無限大になり
情報量は、限りなくゼロに近づいていく道理であると考えます
2018-01-14 16:30:00
私という実体
人間とは、情報でしかない
私とは誰か?
名前、生年月日、親は誰で、何処の生まれで、、、
どこの学校を卒業して、どこの会社で働いていて、、、
と、何処までいっても、私以外との関係でしか定義できない
いや!ここに確かに私はいるではないか?
「観測による波動関数の収縮」などという
量子論のコペンハーゲン解釈など持ち出さなくとも
私の体を構成している原子は、つねに入れ替わっている
1ヵ月もすれば大半の細胞は入れ替わってしまうのだ
あるのは、DNAという情報だけである
それでも、今考えている私はいる
自我とは、過去の記憶からなる評価関数でしかない
私とは、脳内の記録と活動情報でしかなく
脳の死とともに消滅する
これが私だという、確たる実体などない