2018-03-17 12:01:00
昔、の話ですが
美術雑誌上で、画家が自分の作品について懇々と語っている記事を見て、よく険悪感を覚えたものです
まあ、それらの文章は形容詞だらけの何が言いたいのかさっぱりわからないものではありましたが
この人は、画家になどならずに、詩人にでもなった方がよかったんじゃないか?なんて、文学に対して失礼なことを思ったものです
また、こんな話もあります
絵に説明などいらない
絵は、鑑賞者がそれぞれの見方で感じてくれればいいのだ
絵は、作家の手を離れた時点で、鑑賞者のものとなる
これまた、もっともらしい話ではあるが
なんとも、いい加減で無責任な言いぐさだと思わずにはいられません
さて、時代は移って
前提条件として、コンセプトありきの現代美術、花盛りの今
「文脈としての美術」の根拠をどのように捉えればいいのでしょうか?
ということについて考えてみたいと思います
美術絵画は、視覚表現による芸術です
人間は、外界の情報を五感(視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚)により取り入れ、脳で処理することにより認識します
がしかし
この段階では、動物と同じように、カスミのかかったようなぼんやりした認識にしかなりません
犬は、自分の飼い主と他人を見分けることができます
食べ物と食べれないものを区別することもできます
でも
犬には、トヨタとホンダの車を見分けることはできません
赤とオレンジを区別することもできません
なぜでしょう
それは、言語を持たないからです
人間は、言語の獲得によって、混沌とした世界を明確に認識し、思考することができるようになりました
言語は、五感を整理統括する複雑な情報処理を担うメタな機能となり
人間は、言語を駆使することにより、高度な文明、文化を生み出しました
人間は、言語によって
お金を発明し、社会を形成し、科学を発展させ、過去や未来そして宇宙の果てから量子の世界にまで思いを巡らせるのです
さて
高度な人間活動の一つである芸術、美術絵画もまた
五感の一つである視覚情報の言語空間における産物であると言っていいでしょう
ならば
美術がメタな言語機能を基盤としていることになんら矛盾はなく
しごく当たり前の姿であると言っていいことになります
それが、高度に発展した現代美術のあり様だと考えてもいいのかもしれません